やはり適性が人生を決めるんだなという当然の話

先日医学部の卒後30年の同期会に出席した。

中学や高校の同期会はすでに違う世界の人間の集まりになる。懐かしい話は楽しいが,共有の話題を探りながら話す必要があるし,何気ない一言が相手を傷付けることを考えて久闊(きゅうかつ)を叙する必要があり神経を使う。

一方医学部は大学というよりもいわば専門学校,卒業後は同業者になるので喜びや悩みも類似している。そんな意味で大学の同期会は楽しくかつ気楽である。

だが同業とはいっても30年という歳月は様々な差異を作り上げている。

劈頭(へきとう)は様々な大学の教授職・准教授職,彼らは医師の象徴的な出世頭ともいえるだろう。続いて有名病院の院長や部長クラス,そして掉尾(ちょうび)が私のような開業医である。

世間一般の価値観に沿って述べたが,掉尾の私がいうのはなんだが,開業医だからという理由で医師を卑下したりはしない。齢五十を超えれば職業に関係なく人間が見えるようになるものである。

さて序列の上位はやはり学生時代から今の職業に就くことが容易に想像できた人たちで,開業に至った人たちもやはりそうである。そこに介在する適性はすでに学生時代から隠せないものである。

そんな中,本来であれば序列のもっと上にいるべきなのにそこにあえて登らないという選択をしていると思しき人たちがいる。

やりたい事より収入を優先せざるを得ない経済的事情,子育てや教育の問題,実家の継承,親の介護の問題などがあるのかもしれない。だが,やはりそこに適性でしか割り切れない何かが垣間見える。

仕事を成さんとする場合,才能と努力が最重要であることは論をまたないが,そこには周囲の協力が不可欠だ。

病院をよくしようとすればスタッフに苦労がかかる。救急患者をすべて引き受けたらスタッフ総スカンだ。研究にのめり込めば家族に負担がかかる。私が秋田大学での研修医時代の助教授だったK先生は「うちは母子家庭だよ」と笑っていた。

自分自身の苦労よりも,それによって他人にかかる苦労に対してより敏感に反応する人達がいる。自分はどうなってもいいが職場や家族に負担が及ぶことに耐えられない人たちだ。それはむしろ一般的な感覚ともいえる。そのような人たちはたとえ高い能力を持っていてもある組織を拡大したり大きな研究成果を上げることが難しい。

他人に努力や苦労をさせることに強い苦痛を感じる優秀な人達,彼らは優れた能力を持ちながらその能力に相応しくないと思えるポジションにいる。そのように感じる。

適性などという一刀で単純に人の人生が斬れるものかという意見もあるだろう。しかし五十余年生きてやはり適性というのは人生を決定する最強の要素で,素晴らしくもあり恐ろしくもありと感じたところである。(写真は本日の拙宅の庭から,ニューギニアインパチェンス)