風通しが良すぎる社会

私ほどの年齢にもなると,同級生,先輩,後輩に各分野での実力者がかなり多い。50代というのは各分野で現場でのトップとして活躍する世代であるからそういうものではあるだろう。TV等のメディアで彼らを見ることも最近非常に多い。

かくいう私は生来目立ちたがりでありながらそのような場にでることはない。もちろんそれは私の実績や私への社会評価を表していることに間違いはない。内輪ウケはできても広く社会に出せるようなものは何一つないと思っている。

しかしこのような私ですら稀に取材の依頼を受けることはある。しかしほぼ例外なく断っている。

頼まれて断るというのは不遜さや過大な自尊心という側面もあるが,多くの人がおそらくはそうであるように私の場合もその理由は「恐怖」である。とくに小児期に社会から受けた扱いがトラウマのように作用しているのではないかと思う。そのような幼稚な社会性の残滓(ざんし)は本来克服すべきものではあるかもしれないが,昨今のニュースはさらにガードを上げさせるものばかりである。

相撲の暴力問題,芸能人の不倫問題,家庭内暴力に関する問題,そこに共通するのは「場のルール」を認めない社会である。一つのルールですべての場を裁くことができるといういわば「統一場理論」がまかり通っている。相撲の世界,芸能人の世界,他人の家庭という世界に赤の他人がズケズケと乗り込んできて神の顔で裁き始める。そこでは「人権」やら「平等」「反暴力」という御旗さえ掲げていればフリーパスである。

風通しの良い社会というのは,つまりは監視社会である。それはある意味共産主義国の監視社会よりも怖い。監視が社会に跋扈(ばっこ)する悪をある程度駆逐した恩恵は評価する,しかし私的立場としては,そのような蹂躙は御免被りたいのである。だから卑怯と言われても自らを人口に膾炙(かいしゃ)させるという選択はしない。少数向けの情報は発信するが,他人の世界には入らないし,同様に自分自身のガードもきちんと上げておく。賛否両論はあろうが,あくまで私の個人的な意見として流していただきたい。(写真は大館市櫃崎)