引っ越しは麻薬の匂い

プロフェッショナルならではの技能と力強さを発揮した荷降ろし作業はこの時期の風物詩である。以前プロに大きな家具を搬入してもらったことがあるがその職人技には感心することしきりだった。

近年大きな家財を数人がかりで運ぶような転居作業を見ることは少なくなった。数年先の転居を考えた使い捨ての家具を購入をしているからだろう。古い家具店が絶滅した原因のひとつだ。

新聞チラシに並ぶ壮麗な婚礼家具を見ることもすでにない。それらは定住を前提として購入する代物で,転居の多いこの時代には粗大ごみにしかならない。昨今の家は建付け家具が主流だから定住する人ですら買わない。

しかし結婚して家族ができると使い捨ての家具だけというわけにもいかなくなるし,なんといっても荷物の絶対量が数倍にも増えるのが大きい。梱包を終えた殺風景な室内に聳立(しょうりつ)する梱包ダンボールの山,それを仰望しつつ家族が増えるといかに荷物が増えるかを知ることになる。

私自身社会人になってから10回ほどの転居を経験している。医者としては最も少ないほうだろう。だが開業に至った理由のひとつは「もう引っ越しはしたくない」であった。もともとパックラット的な溜め込み習性があったため引越し作業は異常に大変なものになっていた。

引っ越しを嫌って定住したわけだが,近年引っ越しに対する憧れの萌芽を感じ始めている。無い物ねだり以外の何物でもないかもしれないが,家族という軛(くびき)が外れれば引っ越しに対する意識もまた変わってくるのはむしろ自然だといえる。37年前,大学に進学したときの引越しは不安など微塵もなく脳天気な希望に満ち溢れていた。引っ越しの向こうに何か誘惑に光のようなものがいつも見えていた。それは殺虫灯のように危険なものであるかもしれないが,それでもやはり引っ越しには心躍らせる麻薬の匂いがある。

それが現実のものとなるかどうかは分からないが,少なくとも自分自身の運命を自分で勝手に定義するような生き方はしたくはないものである。人生のオプションは常に考えておきたい。

引越し作業ではハウスダストや花粉を浴びやすいのでご注意ください。(写真は本日,雪融け水の長木川)