秋田県大館市 山内耳鼻咽喉科

ペットロスと医療

 

しばらくSNSから離れていた。そうさせたのはペットロスである。

自虐ネタは嫌いではないが,リアルな傷までネタにするほどのドMではない。しかし今回この出来事を綴ることは単なるお涙頂戴ではなく自分にとって何かしら意味のあることだと思えた。

飼い猫が逝ったのは9月7日,はっきりした原因が分からぬまま一気に衰弱が進んで死んだ。

今から遡ること10年余り,猫を飼いたがっていた長女の声に呼び寄せられたかのように我が家に舞い降りた推定年齢1才の野良猫。ブラックスモーク(表面が黒くて深い部分がグレー)の毛色をもった雑種の雌猫である。大人しい性格で普通の猫が喜ぶようなおもちゃにも殆ど反応せず,泰然自若としておよそ猫らしくない猫であった。

当時猫を飼い始めるにあたって自分自身に葛藤が生じていた。というのは私が10才のとき飼い犬が交通事故で死んだときのペットロスの瘢痕が残っていたからだ。似たような理由でペットを飼うことを躊躇している人も多いことだろう。

しかし長女が猫を飼うことを懇願していた最中,まるで脚本で書かれたかのように出来すぎた状況で敷地に現れたことは,幸福もたらす何かが降臨したのではないかと想像させるには十分だった。私はペットロスのトラウマを強引に記憶の隅に押し込めて飼うことに決めた。

ペットはいつ死ぬか分からない。10才の悪夢の再現はこりごりである。心理的な予防線を張ってドライに対応していたつもりだった。

しかし何事も計画通りにはいかない。

実際に猫が死んでみると,まさに10才のあのときのシーンが再現されることになった。その悲しみと空疎感は自分の父が死んだとき以上のものだった。それは私自身にとっても想定を遥かに超えるものだった。

何を大げさな!!,親に失礼ではないか!!と思われても仕方がないが,私は自分の感覚をそのまま正直に表現している。理由は分からない。育てるという営為にともなう愛情ホルモン(オキシトシン)の増加と,対象物の喪失による悲しみの間には何らかのリンクがあるのかもしれない。

ペットを失った悲しみは,ペットのいない人には理解してもらえないし,現在ペットを飼っている人ですらその甚大さを予想するのは容易でない,だから皆気軽にペットを飼い始める。ペットを失った悲しみを共有できるには経験者だけだと私は断言することができる。

医療の話への落とし所を考えてみる。

昨今ペットの総数は15才以下の子供の人口を超えているという。我が子のようにペットを育てている高齢者も多く人とペットの関係が医療に何らかの影響を与えている例は数多い。ペットがいるから入院できない,ペットが死んでショックで食事ができない,眠れないなどである。そこに寄り添えるのは,おそらくペットロスを経験した医療者だけであろう。ある心療内科クリニックでの話であるが,ペットの死で落ち込んだ患者に対して「たかが犬でしょう,大げさな,はやく元気をだして」などと言った医師がいたという。結局その患者は二度と受診することはなかった。

ペット社会化が進行する今,ペットに関する安易な発言が診療の地雷になる得ることを医療関係者は牢記すべきだろう。

私自身はペットロスの波瀾はようやく鎮まりつつある。平穏な状況からまるで間欠泉のように予期なく湧き上がる悲しみに,人前では歯を食いしばって耐え,誰もいなければ嗚咽してしまうような日々からは既に脱した。

再びペットを飼うべきかどうか,落ち着いてから考えたい。(写真は10年前のわが飼い猫)