食べ物の好き嫌いが表すこと


少し前の話になるが,地元の駅弁で有名な「鶏めし」が学校給食で配給されたことを新聞が報じていた。昨今の給食の話題を耳にすると,我々の年代は羨ましいという思いを禁じ得ない。

おそらく誰もがそうであるように,給食の思い出は複雑である。当家でも子供らが集まると給食メニューの思い出が頻繁に話題に上がる。「今までで食べた一番うまいカレーは学校のカレー」とか「卵豆腐は死んだ」など,思い出深く給食を回想する日本人のなんと多いことか。

私自身の記憶も例に漏れず複雑である。焼きそばなどの人気のメニューがあった一方,とても食えない拷問食もあった。当時は給食を残すことが許されず,昼掃除中ひとり机に残され涙でトレーを濡らす子もいた。私は生玉ねぎの入ったポテトサラダが大嫌いで,口にサラダを含んだまま桐生祥秀選手よろしく廊下の空気を切り裂き,アンモニアが目に染みるトイレで吐き出したこともあった。

今回は給食の思い出話を語ろうというわけではない。つい導入部分が長くなっただけである。

私が給食の話題を持ち出したのは,食べ物の好き嫌いが多さが,人の好き嫌いや物事の好き嫌いといった全般的な好き嫌いの激しさと相関しているように感じたからである。例えばうちの三女は食べ物の好き嫌いが激しい,そして他人や世の中のさまざまな事柄に対しても好きか嫌いか極端な二分法で語ることが多い。くらべて長女と長男は食べ物の好き嫌いは少なく,自分の好みから外れる人や物事に対してもかなりの寛容性を示している。「好き」と「嫌い」が脳でどのように処理されてるのかは分からないが,共通の経路で処理されているのではないかと想像させる事実である。

仮説が正しければの話ではあるが,食べ物の好き嫌いが多いか少ないかを尋ねることで,その人が他人や他の物事に対してどの程度の寛容性をもっているのかを推定できるのではないか,そんな想像をして遊んだという話でした。